43言目:惜別 vol.1

令和4年11月、教え子のひとりが惜しまれつつも現役生活に別れを告げた。

芦谷汰貴。

教え子のひとりにここまでフォーカスするのはどうかと思うが、「彼のことは記憶が新しいうちに文章にしておかなければならない」と自分の直感が言っているので、ここに残したいと思う。

5年前の平成30年、彼が入部した時のことが今でも思い出される。

 

平成30年4月、140キロ近いストレートを投げるという触れ込みの左腕が入部してきた。
その学生は、入部挨拶の時からすでに「卒業後はプロ野球選手になる」と公言していた。

これまでも、九大には140キロを投げられる投手はいた。「将来はプロになりたい」と言う投手もいた。
言い方は悪いが、そんな歴代の投手たちと比べたとき、この1年生が突出して質の良い球を投げられるかと言われればまだそこまででもなかったし、投球術が特別完成されている投手というわけでもなかった。また、プロになりたいという割には、思考が研ぎ澄まされているという感じでもなく、まだ甘さが感じられた。

入部当初は、どちらかというと打撃のほうがよかった印象だった。
そういえば、本人も「投手専念は高学年になってから」とか言っていたような気もする。
実現はしなかったが、入部してすぐの春からベンチ入りさせようと議論がなされたくらい、得点力に乏しい九大打線の起爆剤になりそうな人材だった。(九大では1年春からベンチ入りすることは異例)

まだ、粗削りも粗削り。

ただ、プロになりたいのは本気らしい。
その気持ちは非常に強かった。

本気の子には、こちらも本気で応えてやりたい。

今だから言えるが、
芦谷を特別扱いし、他の1年生とは違う課題を与えた。

当時、新入部員への課題として、自己分析や短期・長期目標などを書かせていたが、
芦谷が本気でプロに行くためには、これだけでは足りないと判断した。
そこで彼には、卒業後プロになるまでの日程を逆算した形で、1年ごとの目標を立てさせるためのフォーマットを別に課した。

彼が提出してくれた年間目標のなかには、絵に描いた餅のようなものもあったが、今はそれでいいと思った。
まだ彼自身のなかでも漠然としていた「プロ」という目標に向けて、
いつまでにどうなっていればいいのかを、もっと具体的に考えてくれるようになれれば、それでよかった。

月日を経るにつれ、徐々に芦谷のことが分かってきた。
やはり、心技体いずれにおいても、プロになるためには、まだ成長が不可欠ではあった。
ただ彼には、常人には無い、抜きんでた才能が確かに存在した。
それは、圧倒的な知識欲と行動力である。

月並みな表現だが、芦谷はスポンジのように、色々な媒体を駆使して知識を吸収していった。
私の半端な知識量を抜き去るのに、そこまで時間はかからなかったはずだ。

その知識欲よりも更にずば抜けていたのが、行動力である。

例えば、
あるオフシーズン、彼は見聞を深めるべくカナダへの短期語学留学を行った。
その際、自力で現地大学の野球部監督と交渉し、練習に参加させてもらった。
身体が大きくフィジカルの強いカナダの打者たちと対戦するなど、もはや語学留学なのか野球留学なのか分からないくらい、濃密な留学になったようだ。

福岡市内にあるプロ御用達のジムに通い、プロ選手と出くわしたタイミングを見計らって積極的に声をかけていたらしい。プロ選手も、色々聞きまくってくる芦谷をまるで弟子のようにかわいがり、色々教えてくれたそうだ。

他大学との伝手を見つけては、練習に参加した。
社会人やクラブチームとも、どこからか伝手を見つけては、練習に参加していた。

極み付けには、メディアの方に「自分を取材しに来て欲しい」と営業をかけたこともある。

厳密に言えば、チームとしての集団行動を守れているかと言えば、限りなく黒に近い。苦笑
なので、手放しで誉めることはできないが、彼の行動力には、素直に感服した。
仮に、今すぐに社会人になったとしても、バリバリに通用すると私は確信していた。
間違いなく、その辺の若手社員よりも遥かにフットワークの軽い、動ける人材であった。

ただ、なかなか本業(?)の野球の実績にはつながらなかった。

もちろん、1年秋から主力の一角としてリーグ戦で登板はしていた。
2年になり先発を任せられる機会も増え、相手エースと投げ合うことも増えたが、勝ち星を掴むことはできなかった。

確かに、圧倒的な知識欲と行動力により得られた情報量は、非常に膨大だった。
ただ、情報量が膨大であるが故に、多くのことにあれこれ手を付けようとし過ぎる傾向もあった。
その結果、技術がうまく定着せず、負のスパイラルに陥ることが多々あった。
これは、芦谷だけではなく、最近の学生に共通してみられる課題のようにも感じる。
ハマれば爆発的な成長を遂げるのかもしれないが、逆に足踏みすることのほうが多く、結果としてコツコツ地道に同じことを継続していた者に抜かされ、差を広げられてしまう。

3年になったタイミングでコロナ禍により春のリーグ戦が中止。グラウンドでの練習はおろか、大学への通学すらまともにできない状況になった。
ここで芦谷は、自主練の風景をYouTubeで配信しはじめる。
リーグ戦というアピールの場を失ってしまったため、少しでも自分のことをアピールできるようにとの工夫だった。
再生数は意外と伸びていた。
芦谷に逆境というものは存在しない。流石である。

秋にようやくリーグ戦が再開。
芦谷は開幕投手を務めた。北九大の益田投手(東京ガス-広島カープ)との投げ合いになった初戦は惜しくも落とすものの、続く九国、福大戦で素晴らしいピッチングを見せ、待望のリーグ戦勝利を挙げた。
しかしながら、コロナ禍による実戦練習不足、かつ試行錯誤を繰り返し固まりきらないままのフォームで腕を振り続けた結果、ついに肘が悲鳴をあげた。
肘の故障により離脱を余儀なくされ、後半の4試合は棒に振った。

気が付けば、入部時に立てた年間目標どおりにはなかなか進まないまま、3年の月日が経過した。

vol.2 につづく

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