4月に入学した学生さんも、そろそろ学生生活に慣れてきたころだろう。
入学といえば、東京大学の入学式での馬渕俊介さん(グローバルファンド保健システム及びパンデミック対策部長)の祝辞が話題になっていた。
東京大学のWEBサイトに祝辞全文が公開されている。リンクを貼っておくので、ぜひ読んでみてほしい。
https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/about/president/b_message2023_03.html
特に共感したのが、夢について馬渕さんが次のように語っている部分である。
修行のために敢えて途上国の支援とは関係のない仕事をしたときに実感したのですが、自分の夢に関わる本当に好きなことをやらないと、それを徹底的に突き詰めることはできません。
また、好きなことをやってないと、幸せの尺度が「自分が他人にどう評価されているか」になってしまう。それではうまくいかないときに持たないです。
馬渕さんのような素晴らしい方と自分を同列に述べるのは非常におこがましいが、
私も新卒で職業を決める際、社会人生活のスタートは「人生の修行期間」と考え、自分がずっと苦手としていた「機械」を扱う会社に入り、同じくずっと苦手としていた「コミュニケーション(喋り)」を軸にした仕事を選び、スキルアップした新たな自分を手に入れようとした。
(草野球が盛んだったことも、その会社を選んだ要因ではある。野球以外にやりたいこともなかったので半ばやけくそで決めたと言われれば否定できない。)
だが、その考え方は大きな間違いだったことをすぐに痛感した。
当時の私がよく日記に書いていた「利き手とは反対の手を使うことをずっと強いられているような感覚で毎日生きている」という表現から、そのもどかしさ、生きづらさが少しでも伝わると幸いである。
こんなことを言うと怒られるかもしれないが、
20数年も生きてきて苦手としているものは、いわば細胞が拒否したもの。無理なものは無理なのである。
(手を抜いて一生懸命やっていないとか、食わず嫌いという場合を除けば)
もちろん、自ら望んで修行の道に進んだのだから、多少は歯を食いしばって頑張らないといけないことは頭では理解していたが、ちょっとやそっと勉強したくらいでは、「自分は本当に日本語を読んでいるのだろうか」と思うくらい、基礎的な専門用語すら頭に入ってこない。なので、何から学べばいいかすら分からない。謙遜ではなく本当に文字通り全く分からなかった。
そんな有り様なので、徹底的に勉強し突き詰めていこうという意欲も湧かず、また、仕事がうまくいかないときに自分を奮い立たせようという活力も出てこなかった。
頭では何度も「もっと頑張らないと」と自らに言い聞かせていたが、そのたびに「そういう問題じゃないだろう」と魂が切実に訴え続けてきた。
好きでやっている人達や得意な人達がたくさんいるなかで、こんな自分がのし上がっていくどころか対等に渡り合えるレベルになるビジョンすら見えず、このままこの業界にいたところで、定年までずっと飯を食っていけるとは到底思えなかった。
USJを復活させたことで有名なマーケターの森岡毅さんは、キャリアの正解・不正解についてこのように語っていると聞いたことがある。
キャリアにおける正解とは、「不正解を選びさえしなければOK」である。
不正解とは、「自分にとって決定的に向いていない仕事を選んでしまうこと」。
自分にとって決定的に向いていない仕事とは、「自分の特徴が裏目に出る」かつ「自分にとって情熱がどうしても湧いてこない仕事」のこと。
森岡さん曰く、キャリアの不正解を選んでしまう人の大半は、自己分析を間違えるなどの原因で、仕事をやってみてはじめて自分には向いていないと気付くそうだが、私は自ら進んで不正解の道を選んでしまっていた。人生の修行をするにしても、そもそもの方向性・戦略自体が根本から間違っていたと言わざるを得ない。
というより、キャリアについてあまりにも真面目に考えなさすぎだった。
やはり、やけくそになっても決して良い結果は生まれない。今更ながら大いに反省している。
私は結局、その後紆余曲折あって、一応は現在の立場に身を落ち着かせた。
22言目の「練習論」において、できないことをできるようになるのが練習だと説いたが、
仕事に限定して言えば、自分が本当に好きなこと、得意なことをやるのが、精神衛生上遥かに健全な道だとつくづく思うようになった。
とはいえ、今の私が本当に好きなことを仕事にできているかと言われると正直自信はない。
相変わらず口だけで、行動が伴っていないのが情けない限りである。芦谷に怒られるかもしれない。
本当に好きとまでは言えないが、「麻婆豆腐がプロ級に上手に作れる」ということだけは他の人よりも得意だと自信を持って言えるので、麻婆豆腐の店でも出してみようかと密かに思っている。
麻婆豆腐専門店店主 351