47言目:引退2023

令和5年2月。
今年もまた卒業生を送り出す時期がやってきた。

彼等が入学したのは平成31年。
「平成」から「令和」へと時代が大きく変わりゆくタイミングに彼等は大学生となり、大学野球の道を歩み始めた。
私事ながら、私も彼等が入学する直前に結婚し、生活が大きく変わった。
言い訳になるが、上級生と比較し、彼等と関わることのできる時間が格段と減ってしまった。
以前のように、平日・土日関係なく、朝から晩までグラウンドに入り浸るわけにもいかない。
関わることのできる時間の絶対量は従来より明らかに減ってしまう。
それは仕方ないことなので、「時間量に頼らない関わり方」を確立すべく模索し始めた。
しかしながら、そんな模索もつかの間、世界は未曾有のコロナ禍に襲われた。
いよいよ、対面で会う頻度が完全にゼロになってしまった。
彼等にとって、私とコミュニケーションをとることは至難の業だったかもしれない。
タイミングや運に恵まれなかった側面もあるが、そういった点では申し訳なかった学年ではあった。

比較的人数の少ない学年だからか、仲が良い学年だったように思う。
また、1年次からリーグ戦出場の機会が与えられる選手も比較的多かった。
実力のある選手たちだった。
ただ、自分たちが最上級生になってからは、なかなか勝ち星に恵まれなかった。
送別の挨拶やブログでも、悔しい思いを口にする選手が多かったように感じる。

だが、最近はこういうことをよく考える。

当たり前だが、野球は相手がいるスポーツである。
当たり前だが、勝敗などの結果は、相手次第の相対的なものである。
他大学と比較したら、過去の先輩たちと比較したら、確かに突出した結果は残せなかったかもしれない。
だが、だからといって取り組みが全て失敗だったのだろうか。そんなことは決してない。

リーグ戦で投げるために必死に練習して、その結果、1勝することができた。1試合投げることができた。1イニング投げることができた。
リーグ戦でヒットを打つために毎日練習して、その結果、最後の打席で初ヒットを打てた。
立派な成功体験である。
胸を張って良いと思う。
「ヒット1本しか打てなかった」と考えるか、「ヒット1本打つことができた」と考えるかは大きく違う。

社会に出てからは、他人と比較して生きていたらキリがない。
隣の芝生はいつだって青く見える。
こうしていれば、こうだったら、、、
ifばかり言っていても仕方がない。
人間は、「他人と比較して『自分が優位だ』と感じた時に満足感を覚える生き物」であるのは否定しない。
だが、できることなら、「人と比較する生き方」ではなく、「自分が納得できる生き方」かどうかを判断の軸にしてほしい。
甘ちゃんかもしれないが、最近はこんなことを考えている。

彼等が、これからの長い長い社会人生活のなかで、少しでも「自分が納得できる生き方」を探し、見つけてくれることを心から祈っている。

351
一覧にもどる

最近の記事

  • 関連記事
  • おすすめ記事
  • 特集記事
PAGE TOP